鶴のマークを掲げて100年 - ルフトハンザの1世紀 進取の気性と波瀾を経て新たな始まりの数々に満ちた私たちの旅へと皆様をご案内します。1926年に創業し、1950年代に再出発したルフトハンザの歴史は、今日、全世界に広がる成功物語となりました。重要な節目を振り返りながら、ルフトハンザが幾度となく政治・歴史上の困難に直面しては再生を果たしてきた歩みをご覧ください。こうした出来事を経て、今日、毎年何百万人ものお客様を世界各地の目的地へとお連れする航空会社となったのです。
ドイツ航空界にとって歴史的な瞬間です。1926年1月6日、Deutscher Aero Lloyd AG(DAL)とJunkers Luftverkehr AG(ILAG)が合併し、ルフト ハンザ ドイツ航空(Deutsche Luft Hansa AG: DLH)が誕生しました。新たなロゴとして鶴をあしらった第一号の航空機が飛び立ったのはその年の春。航空の新時代が幕を開けました。
1927
創業から1年で、ルフト ハンザは見事な路線ネットワークを広げています。ミュンヘンからアルプスを越えてヴェネツィアへ、ベルリンからバルト海を越えてオスロへと就航。モスクワへも定期便の運航が可能でした。
同年、ルフト ハンザは初めて航空機と鉄道を組み合わせた旅を試行させます。2つの交通手段を連携させることで、移動時間が短くなり、地方への乗り継ぎがしやすくなります。これがルフトハンザエクスプレス鉄道の基となりました。
1929
5月29日、ルフト ハンザは夏のバケーションの新時代を迎えます。ジルト、ノルダーナイ、リューゲンなどの島の目的地に向けて、「海水浴路線」の定期便を就航開始しました。ドルニエ社Wal型機をはじめとする飛行艇のおかげで海岸への移動時間が格段に短くなり、ビーチに繰り出すお客様には空から海岸に降り立つ体験も楽しみでした。新たなサービスのプロモーションは、「Fliegt in die Bäder!」 (「ビーチに飛ぼう!」)と銘打つキャンペーンで行われました。
1932
ユンカースJu 52初号機がルフト ハンザ機の機材に加わりました。この伝説的な航空機は、ほどなく「Tante Ju」(「Juおばさん」)という愛称で親しまれます。この航空会社の「戦力」として、進取の気性と卓越したエンジニアリングを象徴する存在となりました。
1933
ドイツ国家社会主義者(ナチス)の台頭とともに、ルフト ハンザは、政治的専有と強制的同一化(いわゆる「ナチ化」)の時代に入ります。最初期に行われた変更が、年次総会で決定した会社名の変革です。ルフト ハンザ(Luft Hansa)を1語のルフトハンザ(Lufthansa)とし、社名がルフトハンザ ドイツ航空(Deutsche Lufthansa Aktiengesellschaft)になりました。
1934
ルフトハンザは、定期便で南米への郵便輸送サービスを開始。航路が長く、燃料タンクの容量が不十分だったものの、解決策が見いだされます。航空機が大西洋の真ん中で船上に降り立ち、燃料補給後に再度飛び立つというロジスティクスの離れ技を見せました。
2機のルフトハンザ機、ユンカースJu 52がベルリンを飛び立ち、中央アジアのパミール山脈を目指しました。世界でも特に人里離れた危険な地域です。極東に到達し得る航空路線を試験飛行し、ソ連領空を通らずに済む経路を開拓するのが目的でした。この探検飛行が特殊だったのは、5,000メートル(16,400フィート)を超える峠を越え、狭い山峡を通り抜け、極めて予測困難な気象条件に対処しなければならなかった点です。
Ju 52の1機は、中国西北地方のホータン(和田)に緊急着陸を余儀なくされました。乗務員は一時的に拘束され、無事ベルリンに帰着したのは、何週間も抑留された後のことです。
1938
1939
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。定期航空便はほぼ完全に停止します。航空機と乗務員の多くはドイツ空軍に移管しました。
1945
終戦後、連合国は、ドイツに対していかなる形のフライト運航をも禁止。航空機の製造、所有、使用は認められず、ドイツ航空界は完全に停止しました。
1933-1945
ドイツ国家社会主義(ナチス)下のルフトハンザ
ドイツで国家社会主義者(ナチス)が政権を掌握した1933年、ドイツ史のみならずルフトハンザの歴史でも最も暗黒の時代に突入します。
最初のルフトハンザはナチス政権の一翼を担い、その軍事活動・犯罪行為に関与しました。社内の全員ではないにせよ、あまりにも多くの人が、その方針を積極的に支持しました。ナチス時代の前から政権下にかけて、ルフトハンザは、国家からの補助金や国家社会主義者幹部との協力関係などから利益を得ていました。第二次大戦中、ルフトハンザはドイツ空軍のパイロットを養成し、軍需品の生産を担いました。何千人もの強制労働者が、差別的・非人道的な環境下で労働を強いられました。その数が労働者全体の半数を占める時期もありました。
ルフトハンザは、創立100周年を機に、国家社会主義時代における企業としての責任に関する再検証も行っています。ナチ政権下でルフトハンザが果たした役割について明らかになった内容は、書籍『Lufthansa – The First 100 Years(ルフトハンザ100周年記念誌)リンクはブラウザの新しいタブで開きます』の中で、社外の3人の経済史家により記されています。2026年夏には、フランクフルト空港に新しいビジターセンター「Hangar One」を開設し、ほかの展示とあわせてナチス時代の特集展示も行います。
1951
この年、ルフトハンザ再建に向けて、数々の重要な決定が下されました。最初のルフトハンザは1951年2月に清算。一方、新たな出発のための具体的な計画がケルンで始まりました。ハンス・クリストフ・ゼーボーム運輸大臣の委託を受けたハンス・M・ボンゲルス率いるチームが、同年、ドイツの新たな航空会社の基盤を開発しました。このプロジェクトは、西ドイツの航空権を段階的に復活させようという連合国の取り組みで促進したものです。
1953
再建中のドイツで、航空界も新たな出発を目指していました。そのゴーサインが示されたのはケルンです。国営企業「Aktiengesellschaft für Luftverkehrsbedarf」(Luftag)の設立により、新生ルフトハンザの基盤が築かれました。
1954
8月6日、Aktiengesellschaft für Luftverkehrsbedarf(Luftag)年次総会で、伝統的な会社名ルフトハンザ ドイツ航空(Deutsche Lufthansa AG)の採用が決定しました。数週間後、同社は30,000ドイツマルクを支払い、最初のルフトハンザの歴史的シンボルである鶴のマークと青・黄色をあしらった旗を西ドイツの新生航空会社の商標として正式に復活する権利も確保しました。おかげで、新たに創設した会社が、たとえ法的には新会社であっても、戦前の航空会社からビジュアルと名称を受け継げるようになりました。
ルフトハンザは新たなコーポレートデザインを開発。鶴は統一された形に整えられ、新しい時代の象徴となります。同年、この新生の航空会社は、ついに空へと飛び立ちました。4月1日、ドイツの国章を尾翼に掲げたルフトハンザのコンベア340が、2機ほぼ同時刻に離陸。1機は、ハンブルクからミュンヘンへ飛行。途中、デュッセルドルフとフランクフルトでストップオーバーしました。同じ頃、もう1機のコンベアはミュンヘンを出発し、フランクフルトとケルンを経由しハンブルクへ向かいました。
1955年4月19日、ロッキード スーパーコンステレーション初号機がルフトハンザに引き渡されます。その後ほどなくして、鶴が「池を渡る」ことに。6月8日、新生ルフトハンザによる初の大西洋横断フライト、ハンブルク発ニューヨーク行きの就航です。それとともに、ルフトハンザはスポーツと政治を代表する特別なミッションを担います。特別機が陸上競技の西ドイツ代表チームを乗せてヘルシンキに向かいました。さらに、2機のルフトハンザ機が、コンラート・アデナウアー首相と西ドイツ代表団をモスクワ・ヴヌーコヴォ空港へと運びました。
1956
ルフトハンザは初の南米路線を開設。ハンブルクを出発し、デュッセルドルフまたはフランクフルト、パリ、ダカールを経由して、リオデジャネイロ、サンパウロ、ブエノスアイレスへと至る航路です。何千キロもの、いくつも時間帯を越える飛行距離。大陸間をつなぐ大きな飛躍であり、国際路線ネットワークが大幅に拡大しました。テヘラン、イスタンブール、ベイルート、バグダッドへの定期便も加わりました。
ルフトハンザは「ペーパージェット」プロジェクトを開始。革新的なシミュレーションプログラムを開発しました。最初のジェット機が実際に飛び立つかなり前から、今後のジェット機運航の手順、経路、条件などをくまなく紙上でシミュレーション。先を見すえたコンセプトであり、来たるジェット機時代に航空会社として早期に正確な準備をすることができました。
新時代を告げる空の新星、ロッキードL-1649Aスターライナー。この「スーパースター」は、大西洋横断フライトの新たな「切り札」とも目された、当時世界最新鋭の大型機です。新型機の投入により、快適さ、航続距離、信頼性が向上。大西洋横断の空の旅が大幅にグレードアップします。同年、ルフトハンザは、1955年に運航再開以来100万人目のお客様を迎えます。お客様が当社に寄せてくださる素晴らしい信頼の証の始まりです。
その後ほどなくして、ルフトハンザは、ニューヨーク路線のファーストクラスに初めて特別なセネターサービスを導入します。このサービスでは、18席の豪華なスリーパーシート、ベッド、ラウンジ、極上の機内食や飲み物などをご用意。ゆとりのあるお客様にご愛顧いただけるように努めました。
1964
ボーイング727の到来により、ルフトハンザの近代的なヨーロッパ内ジェット機が初めて飛び立ちます。この3発エンジンの航空機は、短・中距離路線もジェット機時代に移行したことを告げるもので、ヨーロッパ内路線に大きな変化をもたらしました。
7月23日、フランクフルト発ニューヨーク行きのルフトハンザ便機内で、史上初めて高度10,000メートル(33,000フィート)上空で赤ちゃんが誕生。その女の子はバーバラ・ルフトハンザ・ヘルツォークと名付けられました。
1968
以前から、ルフトハンザは米国航空機メーカーのボーイングに対して、短距離で経済的に運航できるジェット機を設計するように働きかけていました。ルフトハンザのエンジニアは、その具体的な要件を設計・製造段階に直接反映させました。当社史上初の試みです。この緊密な協力の成果がボーイング737です。ルフトハンザによって「シティジェット」と名付けられました。航空史上でも特に成功を収めた航空機シリーズです。
ルフトハンザは、シティジェットを定期便運航に導入した世界初の航空会社です。ジェット機時代が日常の旅にもたらされることになりました。
1970
4月、ボーイング747をフランクフルト - ニューヨーク路線で初めて運航。北大西洋路線でルフトハンザのジャンボ機時代が幕を開けます。その優雅なフォルムと大きさから「空の女王」とも称されるジャンボジェット。ルフトハンザの当初の座席配置では、ファーストクラス32席、エコノミー333席を擁していました。さらに、2本の通路、機内のシネマ、アッパーデッキにラウンジを完備。長距離路線を利用するお客様にとって、ゆとりのある空間と快適さから、空の旅が一新しました。
1972
ジャンボジェットの恩恵を受けているのは、搭乗者だけではありません。ルフトハンザは、貨物輸送の潜在性を早くから認識していました。1972年、ボーイング747の貨物機を導入した世界初の航空会社となります。この貨物機の特徴は、機体前部が上に開くノーズドアにあります。そのため大型貨物も容易に積み込みができます。
1973
第一次オイルショックと燃料費の高騰により、ルフトハンザはサービス縮小、節約対策の実施、合理化措置を余儀なくされます。路線の業績はなかなか回復しませんでした。それでも、ルフトハンザは海外の多くの競合他社と比べて比較的強靭であり、その後10年ほどをかけて搭乗者数を増やすことに成功しました。
1977
German Cargo Services GmbHの設立で、ルフトハンザに新たな章が開きます。法的に独立した100%チャーター子会社を通じて、当社ではより柔軟で費用対効果の高い運航が可能になりました。German Cargoはほどなく、大型貨物や壊れやすい荷物、生体貨物を扱う専門会社となります。競走馬、生まれたての鶏のヒナ、産業プラント全体など、定期運航便の貨物室に適さない貨物は何であれチャーター子会社で取り扱いが可能です。
「ドイツの秋」テロ事件では、ルフトハンザ便LH181が攻撃対象となりました。10月13日、テロリストがボーイング737「ランツフート」をハイジャック。悲劇的な飛行とアデンでのユルゲン・シューマン機長殺害を経て、人質事件はモガディシュ空港で終結します。10月18日、西ドイツのテロ対策ユニットGSG 9による救出作戦で、86人の乗客全員が救助されました。ドイツ航空史に刻まれた劇的な節目です。
1979
客室では画期的な変化が見られました。女性の客室乗務員が制服としてズボンを着用することが初めて正式に認められたのです。このようにルフトハンザは社会の変化に適応し、伝統と進歩が両立できることをあらためて明らかにしました。
1983
3月29日、エアバスA310-200初号機がフランクフルトに着陸。「ローンチカスタマー」であるルフトハンザは、航空機の設計において重要な役割を果たしました。
1986
エフィ・ラウスマンとニコラ・ルーネマンの2人が、女性として初めて、ルフトハンザで民間航空パイロットの訓練を開始。彼女たちは、より多くの女性がパイロットとして働く道を開きました。1988年8月、2人はボーイング737の副操縦士として初めて定期便に乗務します。ただし最初の数年間は、女性パイロット用の制服がありませんでした。ネクタイや制帽など男性用の制服を着用し、基本的に「男性の服装」をしていました。社内で言われるところでは、お客様に安心していただくためでした。
ミシェル・ジェットは、ルフトハンザのボーイングB727の操縦室でフライトエンジニアとして乗務を始めた最初の女性です。その後、多くの女性が彼女に続くことになります。
1988
6月、抜本的なコーポレートアイデンティティのリニューアルを発表。黄色をさらに際立たせる(胴体と尾翼が黄色の場合でも)提案により、ボーイング737-200に試験的な塗装が施されました。しかし、このデザインは一般の方々や従業員から、空飛ぶカナリアのようだとして不評を買い、激しい反対が起きたため撤回されました。
1989
フランクフルト空港にボーイングB747-400初号機が到来するとともに、新時代の長距離の空の旅が幕を開けます。機体の大きさ、航続距離、最新テクノロジーにより、新たな基準が打ち立てられます。
機体番号D-ABVEのボーイング747-400は、1990年9月、東西ドイツ統一の数日前に「ポツダム」と命名されました。旧東ドイツの都市の名前を世界へと届ける配慮です。
ルフトハンザは、正式に国家が統一する前日に、歴史的な特別フライトを敢行しました。エアバスA310がケルン・ボン空港から離陸。約100人の連邦議会議員を乗せて、ベルリン・テーゲル空港に着陸しました。つまり、ルフトハンザは45年間の休止を経て正式にベルリンに帰ってきたのです。定期便は10月28日に再開しました。
東西ドイツ間の移動は、すぐに通常に戻りました。ルフトハンザは多くの新路線を開設し、これに貢献。空の旅は、何百万もの人々にとって新たな自由の象徴となります。
1992
冷戦が終結し、世界経済が開かれることで、ルフトハンザは路線ネットワークを大幅に拡大しました。1992年の冬期フライトスケジュールでは、ケープタウン、ウィントフック、アルマトイに初めて直行便を就航。新たな国際市場の重要性が高まっていることを示すものでした。
1993
ルフトハンザはドイツで最も重要なフリークエントフライヤープログラムを、Miles & Moreにより導入。乗客はマイルを獲得し、アップグレード、無料のフライト、ラウンジの利用が可能に。ドイツの航空旅行における現代の顧客ロイヤルティプログラムの始まりです。
エアバスA340が、旧来のDC-10やB747-200に取って代わります。より静かで現代的な客室を備え、長距離路線のエコノミークラスとビジネスクラスの快適性が向上します。
ファーストクラスは、ヨーロッパ内路線では段階的に廃止されます。「ヨーロッパコンセプト」とも呼ばれる新たなサービスコンセプトの一環として、ルフトハンザは短・中距離フライトの客室を2クラス制にしました。それとともに、ビジネスクラスが大幅にグレードアップ。同大陸内路線フライトで新たなプレミアム商品となります。
エアバスA319は、好評を博したA320ファミリーを補完する、やや小型の機種で、ヨーロッパの航空交通に不可欠の存在です。
1997
スターアライアンスをフランクフルトにて創設。ルフトハンザは、ユナイテッド航空、Air Canada、SAS、タイ国際航空とともに、初のグローバル規模の航空会社アライアンスを設立しました。これによりサービス内容が大きく広がりました。乗客は、共有ラウンジの利用や、グローバル路線網で一貫した旅行サービスを楽しめるようになりました。合わせて1,334機以上の航空機を擁する路線網全体では、目的地は106か国以上578都市に広がりました。
ルフトハンザは100%民営の会社に。これにより、収益を生むための運営へのプレッシャーが高まる一方、新商品や客室設備への投資がさらに柔軟にできるようになり、この航空会社は国際的な競争力を維持することが可能になりました。
同年、現代的なレトロフューチャリスティックなスタイルによるデザインが全面に施されました。シルバーでアクセントを付け、伝説的な名機Ju 52のイメージをさりげなく伝える、象徴的で現代的なルックス。これが、航空機、機内誌、キャビン、機内食のカトラリーに至るまで、ルフトハンザのコーポレートアイデンティティ全体に行き届きました。
「終わりなき未来」 プロジェクトの一環として、ルフトハンザは、お客様のために特筆すべき一連のサービス向上を行います。ビジネスクラスでは真ん中の座席を空席とし、プライバシーとゆとりを高め、よりゆったりとおくつろぎいただけるようにしました。あわせて、ヨーロッパ路線の機内サービスも現代にふさわしくリニューアル。優雅なデザインを施したテーブルウェアも新たに取り入れました。
フライト中もインターネット接続が可能に。Lufthansa FlyNet®が定期便で初めて使用されたのは、ミュンヘン発ロサンゼルス行きの便です。こうしてルフトハンザは、雲の上で高速インターネット接続を提供する世界初の航空会社となりました。
同年、ルフトハンザ ファーストクラス ターミナルと2つの新しいファーストクラス ラウンジがフランクフルト空港にオープン。ファーストクラスのお客様とHON Circle会員のお客様に、細やかな気配りとすべての旅を特別なものにする雰囲気とともに、最高水準のサービスをお楽しみいただけるようになりました。
2005
航空業界で新たな一章が幕を開けました。トゥールーズで、世界最大の旅客機エアバスA380の完成が一般にお披露目されたのです。その後間もなく、エアバスA380はフランクフルトに初登場。就航予定の3年前、機体番号004の航空機が、試験飛行の一環として、ルフトハンザのハブであるフランクフルトで初めて国際空港に着陸しました。
2006
ルフトハンザの同大陸内路線の機材に、新しいエコノミークラスの座席を導入開始。上質なレザーシートは、落ち着いた色合いを基調とし、客室全体に新しく現代的な雰囲気が漂います。新型の座席は軽量でもあり、燃料消費の軽減にもつながりました。
第18回FIFAワールドカップがドイツで開催。ルフトハンザ機のうち50機に、鼻先にサッカーボールを描いた「フットボールノーズ」の特別塗装が施されました。その航空機が、ワールドカップチームを掲げてドイツから世界各地へと飛び立ちます。
2008
ルフトハンザ アプリが導入。ルフトハンザのモバイルサービスの始まりです。以来、技術やデザインの見直しを何度か行っています。2023年には全面リニューアルデザインのバージョンを発表。旅に必携のデジタルツールとなっています。
巨大機がフランクフルトに到来。ルフトハンザは、エアバスA380初号機の引き渡しを受けました。世界最大の旅客機です。同日、A380-800は、コールサインD-AIMAの登録を受け、フランクフルトのペトラ・ロート市長が「フランクフルト・アム・マイン」と命名。新たなルフトハンザ ファーストクラスも、その航空機の機内で世界初お目見えしました。豪華なシートは、全長207cm x 幅80cm(81.5インチ x 31.5インチ)のベッドに転換できます。
2011
ルフトハンザは、航空会社として世界で初めて毎日運航の定期便でバイオ燃料を試験運用。未来に向けて一歩を踏み出します。この目的のために、半年間、フランクフルトとハンブルクを結ぶエアバスA321のシャトル便が特別に選ばれました。このテストフェーズは、新たな、より持続可能な飛行方法の探求を推し進める姿勢を示すものです。
2012
ルフトハンザは、世界で初めて、ボーイング747-8インターコンチネンタルの引き渡しを受けました。伝説の名機ジャンボジェットの新世代型です。旧型よりも静かで、燃費効率に優れ、快適性が増しています。
同年、フランクフルト空港のコンコースAプラスが、約4年の工事期間を経て、予定通りオープン。ターミナル1が西に800メートル(2,625フィート)拡張。主にルフトハンザとスターアライアンスメンバーが使用します。
2016
新しいサテライトターミナルがミュンヘン空港にオープン。ゲートまでの距離が短く、より快適な旅を楽しめる現代的なハブ空港です。ルフトハンザのハブ、ミュンヘン空港にとって、また一つの節目となりました。
リオデジャネイロ開催のオリンピック大会のため、ルフトハンザは、ドイツ代表の選手たちとその用具をブラジルまで運びました。スポーツの名のもとに行われた特別なサービスです。
同年、ルフトハンザはハンブルクでA350-900初号機を受領。双発エンジンの長距離路線機で、革新的な複合素材を主に使用した市場で最も現代的で環境にやさしい航空機です。ルフトハンザは、これにより、いわゆる「2リッタークラス」に参入します。飛行距離100キロメートルあたりの燃料消費がご搭乗者1人につき約2リットルという意味です。
フランクフルトとミュンヘンが、特別な瞬間にふさわしい舞台に。ルフトハンザは、一新したブランドアイデンティティを2つの大きなイベントで発表。あわせて、新たな塗装の機材が登場します。尾翼から従来の黄色が姿を消し、洗練されたダークブルーが中心的なブランドカラーに。
2020
3月、世界的なコロナウイルス感染症拡大により、世界の動きが止まりました。それまで毎日、何千人もが飛び回っていたその同じ世界で、今や不気味な静けさが支配していました。ルフトハンザ機のほとんどは、地上に留まることを余儀なくされ、滑走路や誘導路に駐機。その間、エンジニアが入念に保全と手入れを行いました。欠航便や本国送還フライト、マスク着用の義務化。ルフトハンザは、まったく新たなサービスコンセプトでパンデミックに対応。柔軟な予約変更ルール、新たな衛生基準、空港での非接触手続きなどを設けました。
2022
危機の後には、新たな夜明けが訪れます。その象徴が、新型の航空機の到来です。新たな効率性と快適さをもたらすものでした。8月30日、ボーイング787-9、通称「ドリームライナー」の初号機がフランクフルトに降り立ちます。同年、ルフトハンザは、ドイツ代表チームを中国・北京オリンピックに送り届ける特別便を運航。ルフトハンザカーゴが競技用具の輸送を担いました。オリンピックに向けた共同ミッションです。
ルフトハンザは、自社の歴史でも最大規模のプロダクトキャンペーンを展開。「ルフトハンザ アレグリス」という名のもと、すべての客室クラスでまったく新たな空の旅をお届けするものです。リニューアルの中核にあったのは、画一的なアプローチから脱却することです。同じビジネスクラスでも、さまざまな座席オプションからお選びいただけるようにしました。さらにプライバシーを確保したスイートや、全長2.20m(7フィート超)のエクストラロングベッドシートなどです。フライトを、かつてないほどパーソナルで快適なくつろぎの時間へ。
2025
新しいルフトハンザ アレグリスの客室は、より多くのフライトでご利用いただけるようになっています。ミュンヘン発の便では、ニューヨーク、シカゴ、マイアミ、上海、ケープタウン行きなどがあります。さらに、フランクフルト発のドリームライナー新型機にご搭乗のお客様も、ルフトハンザ アレグリスをお楽しみいただけます。
2026
ルフトハンザ創業100周年をともに祝い、大きな期待を抱きながら未来を見つめています。
ルフトハンザ100周年記念誌 - グローバルブランドの歴史を収めた書籍
本書は、ビジュアルをふんだんに取り入れながら、1926年創業以来の開拓の日々から、ナチ政権下でこの航空会社が果たした役割、戦後の再出発、世界を代表する航空会社へと成長を遂げるに至る、ルフトハンザの100年の歴史を初めて包括的に物語るものです。
新たに入手した情報源、アーカイブ史料、貴重な写真などに基づいて編纂する本書により、深い歴史的洞察が得られ、テクノロジー、ビジョン、グローバルな志が航空会社ルフトハンザを形作ってきた過程が見てとれます。